渡辺建設40年の歩み「高度成長の波」

昭和39年のオリンピック東京大会閉幕のあと、オリンピック工事の終了により建設ブームも一巡し、証券不況が加わって一時不況ムードがあったが、昭和41年ごろから再び10%をこえる高度成長路線に復した。
経済成長はテンポをはやめ、過熱の様相を呈し、地価をはじめ物価の高騰を見るに至った。そして、その旺盛な需要を背景に土地開発、住宅、工場の建設、高速自動車道路の建設が活発に行われた。当社にとって、この時代は舗装主力の業者からゼネコンに脱皮し、爆発的に成長を遂げた時期である。

まず社内組織については、昭和43年水戸支店設置、45年県北事務所、茨群事業所設置、49年機材センター設置、50年郡山支店設置、商圏の拡大を図るとともに、関連事業について昭和43年渡辺生コンクリート工業株式会社設立(生コン)、44年渡辺産業株式会社設立(骨材の採取・販売)、有限会社下野貨物運送店(現在の大進貨物運輸)設立(運送)46年栃木植物市場株式会社設立(緑化木販売)、48年北関東工管株式会社設立(ガス配管)など関連会社の設立をはかり、昭和39年設立の関東瀝青工業株式会社をふくめ、関連事業を結ぶ渡辺グループとしての態勢を固めた。設備面については、生コン工場を昭和39年の宇都宮工場につづき今市、日光の2工場(渡辺生コン)、アスファルト合材工場については、宇都宮、塩原、茨城県三和、黒磯の4工場、砂利砕石プラントについては、今市の2工場(渡辺産業)等を矢継ぎ早に建設。この安定したコストの安い資材の確保が、工事量の確保と利益に大きく貢献した。昭和46年2月には、本社事務所を宇都宮市宮島町から現在地宇都宮市今泉新町の現本社地域に移転した。また、この間、組織を整備して、舗装主力の業態から脱皮するため土木、建築部門や水道、造園等各部門の人員・機材とも充実、強化が図られ、営業本部の設置とともに、バランスのとれたゼネコンとしての態容をととのえた。

40年代はひきつづき売上高が急伸したが、特に列島改造ブームなどの好景気にのって工事量は大幅に増大した。このため、増大する工事に必要な作業員の確保と増加傾向にある労務災害の防止は、大きな課題であった。
44年には、工事や資材などの協力業者130社が集まり、渡辺建設株式会社共栄会が結成された。このなかには、工事部会として27社が含まれていたが、当時は、まだまだ道路、土木、水道等工事は直営施工も多い時代であった。このため、常傭として登録していた日給作業者も46年ごろのピーク時には約1700名にも達し、そのうち平均して毎日1000名程度が就労していた。これら大量の人員の労務管理には種々困難な点があったが、特に4月から6月、9月から10月の農祭期には農作業に手をとられ、就労者が半減して500名をわるという状況であった。このため県内はもちろん東北方面にまで各種の求人活動が継続的に行われた。49年2月には、労働基準監督署の指導をえて安全管理部が設置され、専任の安全管理者配置による安全業務の徹底が図られた。

また、この時期、社員の福利厚生対策や求人対策の一環として、泰心寮等の社員寮や茨城県涸沼湖畔の涸沼寮等の建設や設置に特に力が注がれた。昭和40年代の工事は東北自動車道、新4号国道はじめ県内主要幹線道路の新設、改修や東北新幹線の建設等交通網の整備や、旺盛な需要に支えられての大規模宅地開発、ゴルフ場はじめ各種レジャー施設の建設、あるいは都市上下水道の築造工事等が急速に拡大した。当社は、これらの主要工事に関して業績をのばし、41年の工事完工高約8億から50年には90億円へと急伸した。特にこの間、将来のぼう大な工事を予測される都市上下水道工事や公害問題に関連して、需給の高まった緑化事業に対処して土木、水道、造園等の担当部門の育成強化や技術の導入を図った。

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