渡辺建設40年の歩み「オイルショックと安定成長への道」



昭和48年10月、第4次中東戦争をきっかけにアラブ石油輸出機構(OPEC)は、石油の供給削減と原油の4倍値上げを公表した。国内の経済も急ブレーキがかかり、物価も高騰し、昭和49年度は戦後初めてのGNPマイナス成長を記録した。さらに53年の石油再値上げの第2次石油ショックにより不況が長びき、倒産件数が激増する状況となった。経済は安定成長の時代となり、第2時石油ショックのあと、昭和56年3月には、臨時行政調査会が土光敏夫氏を会長に発足し“増税なき行財政改革”を旗印に、行政整理が行われた。

また、総需要抑制がとなえられ、61年まで公共事業費をはじめ財政支出の削減がつづけられた。このため、民需も低迷や中央大手業者の地方進出など、建設業の経営環境はきびしい情勢がつづいた。当社は、この激変の経済情勢に対拠して、50年に社内組織の改編を行い、購買本部、工事本部、技術本部の設置、生コン部の渡辺生コン株式会社への移管、労務管理の手直し、下請関係の整備等を図るとともに営業力を充実強化して体制をひきしめて、低成長時代への態勢移行を図った。オイルショック後の50年代に入り、常傭している大量の作業員と日日の工事現場の所要人員の需給バランスをとることがきわめてむずかしい状勢となった。こられの状況のなかで、安定的に売上高をのばしてゆくためには、下請関係を強化し直営施工をきりかえてゆく必要があった。

51年には、渡建商事株式会社が渡辺グループの一社として誕生し、同社を通じて資材等の購入の一元化効率化が図られた。

53年には、県北塩原工場のアスファルトプラント設備が新鋭機に更新された。

50年代は、長びく不況のなかで、受注確保の為の営業力の強化が需要課題であった。56年には真岡営業所、59年に小山営業所を設置、57年には館林支店社屋を新築し、営業域圏の強化を図るとともに、大規模な宅地造成、土地区画整理事業や土地改良事業等の分野の受注の創立・拡大につとめ、官公庁や各公団、そして民間各方面への営業の滲透に力をそそいだ。また、全社員によびかけ、全社的に営業情報を集める営業キャンペーンも実施された。昭和54年には、会社創立30周年記念行事を宇都宮市グランドホテルにおいて盛大に挙行した。特にこの年度は売上高が念願の100億円をこえる122億を記録し、渡辺グループとしては年商200億に躍進した。

≪前のページ



このページの先頭へ